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H20.1.17 才色兼備、蔵の女性たち 取材を重ねるうち、いつのころからか、いい焼酎を造っている蔵元さんは、たいてい、よき伴侶に恵まれているということに気づきました。ひとことでいえば、才色兼備。すてきな女性が多い。 蔵元さんたちは、いったいどこで、こんなにすてきな女性を見つけてきたのかしら。もしかすると、蔵元さんたちは、職業柄(?)、直観的な識別能力が高いのかも。 ともあれ、いろいろな才能を秘めているに違いない彼女たちは、豊かな表現能力ももっていると思われます。 そこで、今から5年ほど前、エッセイを依頼してみようということになりました。最初はどなたに頼もうかといろいろ検討した結果、伊豆大島の谷口香さん(谷口酒造)にお願いすることにしました。 谷口香さんは、屋根のてっぺんに椿の木を植えた、風変わりな、そして、オシャレな酒蔵を舞台に、美意識豊かな蔵の四季と愛犬テツも交えた暮らしぶりを見事に描き出しました。シリーズタイトルは「椿の島の小さな蔵から」です。第1話『春待つ』(Vol.12)に始まり、『出会い』(Vol.13)、『熱い!』(Vol.14)、『秋深し』(Vol.15)と、達者なイラストとともに、島独特の風土まで活写し、毎回、焼酎造りに励む夫への深い愛情を伝えてくれました。 東国原知事の登場で最近よく知られるようになった都城市。柳田恵子さん(宮崎県・柳田酒造)は、今ほど知られてはいなかった都城の蔵の四季を、そして、小さな蔵のたたずまいを、よそからこの地に嫁いできた女性の視点から、新鮮な驚きと感動を込めて描きだしました。「六月灯、そして『しろくま』」(Vol.18)を読んだときは、どうしても、夏の都城に行ってみたくなったものです(暑いだろうなア)。「しろくま」のイラストも目に焼き付いています。 2006〜07年の2年間(Vol.20〜27)は、喜禎ルミさん(喜界島の朝日酒造)が、サトウキビの島の風土を、暮らしを、黒糖焼酎造りを、さまざまな切り口で紹介してくれました。島に吹く風や、黒糖の香りが感じられるような、やわらかな語り口に、やさしいタッチのスケッチ。蝶の話、オバアたちの話、正月風景などなど、多くの日本人にとって未知の喜界島を魅力的に描いていました。図書館からの問合せがきたり、さまざまな反響もありました。ことに、「地下ダム」(Vol.26)の話は反響も大きく、いろいろな感想が編集部に寄せられました。ひとつの離島の話というにとどまらず、大きくは、水資源、地球環境の問題をも想起させたエッセイです。 そして、2008年。最新号では、四ッ谷めぐみさんが筆をとりました。ういういしく、みずみずしい感性があふれています。本誌ではモノクロページですが、イラストの原画はカラーです。このページをのぞいてみた方だけに、その原画をお見せしましょう。ね、チャーミングでしょ。
H16.3.2 そば焼酎を求め信濃へ(9) さて、酒造りにも、県民気質が反映するものでしょうか。「反映する」というのが、今回、そば焼酎の取材で佐久平を訪ねて得た実感です。 進取の気象、つまり先取り精神がなければ、歴史ある清酒蔵がいち早くそば焼酎に取り組むこともなかったでしょう。 また、反骨精神(というより不屈の精神)がなければ、清酒蔵にとってはいろいろな判断を要する焼酎造りをこれだけ長く続けてくることもなかったのではないかと思います。 以前の焼酎ブームの折(昭和50年代)には全国の多くの清酒蔵が焼酎を造りましたが、ブームが去ると製造をやめてしまったところもたくさんあります。しかし、長野県では、多くの蔵が、細々とではあっても、ずっと造り続けています。 なんといっても、そばは長野県の名物。だから、そば焼酎を守り続けてきたといえますが、あっぱれ、地酒蔵の心意気とでも申しましょうか、30年近い年月を経て、長野県は、清酒文化圏でありながら、そば焼酎の産地形成を果たしているのです。 本格焼酎&泡盛は「風土の酒」です。風土とは、土と水、光と風、星(澄んだ大気)、それらが生んだ食べ物、人間…。 鹿児島の酒には鹿児島の、宮崎の酒には宮崎の、それぞれの風土性が感じられ、その風土性のなかにはそれぞれの県民気質も含まれるように思います。だから、本格焼酎&泡盛はおもしろい。舌で、鼻で、目で、のどで、胃袋で、感じて、味わって、その酔いに心も動かされます。これは、なにも本格焼酎や泡盛に限ったことでない、「酒」の楽しみというものですが、本格焼酎や泡盛の場合、これまであまり知らなかった世界であるだけに、興味が尽きないのかもしれません。乾杯! 「そば焼酎を愉しむ」こぼれ話・長野編 終わり(大山芳) H16.3.1 そば焼酎を求め信濃へ(8) 進取の気象に富むいっぽう、反骨精神も旺盛といわれる長野県の県民気質。そのひとつのあらわれでしょうか、意外にも、古くは、四国(漫画界のエノケンと呼ばれた人気作家もいた)と並んで、長野県も「漫画王国」だったという話があります。 いささか古い話ですが、「東京漫画スケッチ会」が編集・発行した『漫画百年』(昭和61年)という本によれば、明治10年に創刊された日本初の活版印刷漫画雑誌『団々珍聞』は(見たことありませんが)、自由民権思想の雑誌だったそうですが、東京・横浜・大阪と並んで長野と岐阜と群馬もその販売拠点になっており、そのころ(明治時代)からすでに長野県には漫画家を輩出する土壌ができていたのだそうです。 漫画はもともと「諷刺」「諧謔」ですから、反骨精神と先取り精神に富むといわれる長野県が多くの漫画家を輩出したというのも、うなづけます。 長野県出身の漫画家として、清水対岳坊、須山計一、近藤日出造、武井武雄、諸星大二郎、山田紳、エトセトラ、エトセトラ・・・。往年の漫画ファンには懐かしい名前でしょう(でも、アニメやテレビゲームで育った現代っ子は知らないと思います)。 H16.2.27 そば焼酎を求め信濃へ(7) 長野県は山国ですが、盆地は肥沃で米の生産性が高く、またかつては山村でも養蚕がさかん(そばの栽培もさかん)で、全体としてみれば、昔から民度が高い土地です。多くの人材が出ています。 一説に、長野県人は反骨精神が基本的性格としてそなわっており、理屈好きともいわれ、学者・官僚・言論人の三つが最も多い職業だとか。法曹界、教育界、医学界、言論界に、多くの逸材を出しています。また、先取りの精神が強く、とくに芸術の分野でその精神が横溢しているともいいます。 江戸時代にさかのぼれば、なんといっても俳人・小林一茶がよく知られています。医家の浅田宗伯や、有名な幕末の思想家・佐久間象山も信濃の人です。和算術の学者もいました。明治時代以降をみても、美術では日本画家・菱田春草、彫刻家・荻原守衛(号は碌山)、音楽では中山晋平(「雨ふりお月さん」などの作曲者)、高野辰之(唱歌「故郷」の作詞者)、女優の松井須磨子、文学の分野では窪田空穂、島崎藤村、島木赤彦、臼井吉見などなど多くの歌人・詩人・作家・評論家を輩出し、また、岩波書店や筑摩書房など出版社を創業した長野県人も多く、新宿「中村屋」を興したのも長野県人です。 酒と旅を愛した歌人・若山牧水(宮崎県出身)の妻・喜志子も、長野県は塩尻市出身の才女です。 『焼酎楽園』第12号の「そば焼酎」特集号では、佐久市の旧「中込学校」(なかごみがっこう)の写真を11ページに掲載しています。 本格焼酎&泡盛の専門誌なのに、なぜ校舎の写真? と不思議に思うでしょう。じつは、長野県人の先取り精神を示すひとつの例として掲載したのです。旧中込学校は、明治時代初期に日本で初めて日本人によって建てられた洋風建築の小学校です(くわしい説明は佐久市の公式ホームページにアクセスしていただくとわかります)。 H16.2.26 そば焼酎を求め信濃へ(6) 宇宙観測ができるのは、それだけ空(大気)が澄んでいるということです。煤煙・煤塵など無縁で、自然環境が守られているあかしといっていいでしょう。不夜城・東京に暮らす者には縁遠い「静寂」に包まれて、夜は真っ暗。うまし酒は、このような土地で造られます。 佐久平は水清く、米の実り豊かで、昔から酒造りがさかん。オリオン星座が輝く真冬は、凍るような大気を破って仕込み唄の声が高らかに響き、杜氏たちが力を込めて造った酒の香りが酒蔵いっぱいに満ちる、そんな光景が毎年くり広げられてきたのです。 今も、佐久平には15の酒蔵があり(ほとんどが小さな酒蔵ですが)、地酒を造り続けています。そして、焼酎も。15蔵のうち焼酎を造っていないのは3社だけとのこと。焼酎は、米、酒粕、そばなどを原料として、いろいろな種類が造られてきましたが、今、多いのはそば焼酎といってよいでしょう。 『焼酎楽園』12号の「そば焼酎特集」を読んだ読者から、長野県のそば焼酎を探してみたけれどあまりなかったという声が寄せられました。そうなのです。佐久に限らず、長野県は宮崎県に次ぐ第二のそば焼酎産地ではあるのですが、長野県のそば焼酎は、もともと清酒造りをメインとする酒蔵で副業的に造られているため、それほど量があるわけではなく、取り扱い店も限られて、めったに見かけません。出会えたらラッキー、飲めたらラッキー、好みに合えば最高にラッキーってことでしょうか。 え、長野県ばかりをひいきしてるんじゃないかって? 確かに「宮崎編」より、引っ張っています。なぜなら、本格焼酎を造る酒造所は全国45都道府県にありますが(泡盛産地の沖縄県を含む)、九州以外で「産地」を形成する地域は数えるほどしかないからです。長野県はその数少ない「焼酎産地」のひとつ。九州各県の各産地・各蔵・各銘柄については、今後も小誌の誌上で語り続けることになりますから、このページでは控えめにした次第。「長野編」の終了まで、あと2〜3回です。 H16.2.24 そば焼酎を求め信濃へ(5) ロケットと言っても、もちろん本物のロケットじゃありません(本物のロケットが見られるのは種子島ですよね)。臼田町のロケットというのは、ロケット型の塔なんです。 高原を走る小海線の臼田駅に降り、駅前の一本道を歩けば、すぐ千曲川に架かる橋に至ります。かつて、その橋の上から、日を浴びて魚のうろこみたいにキラキラ光る川面越しに、佐久総合病院をしばらく眺めたことがあります。 たんぼと畑が広がる田園地帯のなか、ひときわ立派な病院と、その周辺だけわずかに開けた町。臼田町の第一印象は「静寂」でした。駅前に商店街も何もなくて1軒だけ空いていた小さな大衆食堂で昼食をとったものの、食後にコーヒーなど飲んでゆっくりくつろぐ雰囲気でもなくて、そそくさと店を出て、見渡したけれど、やっぱり何もなくて、しかたなく歩きだしたのでした。 でも橋の上から、ゆったりと蛇行する千曲川と、そのほとりの病院を眺めるうちに、最初に感じた寂しさは「旅情」に変わったのでした。つい口ずさんでしまいました「千曲川旅情のうた」。ここは小諸でもないし古城のほとりでもないけれど、ちょっと旅情気分でしたね。 しばらくして我にかえり、前を向いたとき、目に飛び込んできたのです、あのロケットが。いえ、ロケット型の塔が。ありゃりゃ、なんだろう、あれは。行ってみたら、桜の木々に囲まれた小山の上にそれは立っていました。そこは公園で、春には町民が憩う花見の名所とか。塔のいわれも説明されていたような気がします。要は、臼田町は星空の美しい町だってことですね。空の透明度がきわめて高い。だから、文部科学省宇宙科学研究所の宇宙観測施設もこの町にあって、大きなパラボラアンテナもあります。つまり、ロケット塔は、宇宙観測の町のシンボルというわけです。 それにしても、「へえ、そーなんだ」です。すっかり旅情気分にひたっていたのが、一転して好奇心のかたまりになった自分を笑いたくなったりもして・・・Mカメラマンも抑え難い好奇心を抱いたことを知り、ひとむかしも前の体験を思い出してつい笑ったのでした。 H16.2.20 そば焼酎を求め信濃へ(4) ナゾの数字歌碑。ふたつめの読み方はこうです。 「よしやよし 何は置くとも みくに文(ふみ) よくぞ読ままし 文(ふみ)読まむ人」 意味ありげですが、べつに深い意味はないのかもしれません。よくわかりませんが。 でも、昔の人はこうした語呂合わせの歌を創ることに長けていたのだなあと、感心します。いちども重複させずに、すべての「かな」を使って「いろはにほへと(色は匂へど)…」と歌った「いろは歌」に通じる言語能力の高さを感じます。 と、あまり碓氷峠でゆっくりしていると先へ行けませんから、話を佐久平に進めることといたします。車は、ちょうど臼田町のあたりにさしかかるところでした。 「あのう、このへんを通るときにいつも気になっていたものがあるんです」と、Mさん。 「ロケットみたいなもんが立ってるんですよ。あれ、何でしょうね」 「ロケットですよ」と、私。つい、笑ってしまいました。なぜ笑ったかは、のちほど。 「はあ? ロケットですか」とMさん。(ウソだろ)と、彼の顔には書いてありました。 H16.2.19 そば焼酎を求め信濃へ(3) 余談ですが、碓氷峠にはさまざまな伝説や逸話があります。碓氷峠に生まれた「荒童子」(あらどうじ)は怪力の持ち主で、大江山の鬼退治で有名な源頼光の四天王のひとりとなったそうな。その名を碓氷貞光といいます。 神話では、ヤマトタケルが亡き愛妻オトタチバナをしのんで「あづまはや」と泣いたのも、この碓氷峠であったとか。 さまざまなエピソード満載の碓氷峠に、数字が並ぶ不思議な歌碑があります。 「八万三千八 三六九三三四七 一八二 四五十三二四六 百四億四六」と書いてあります。まるでナゾナゾですが、なんと読むのでしょうか? 答えは、こうです。「やまみちは さむくさみしな ひとつやに よごとみにしむ ひゃくやおくしも」(山道は 寒く寂しいな 一つ家に 夜毎身にしむ 百夜置く霜) この歌碑は「一つ家の歌碑」といわれ、昔は旧中山道にあったものが江戸時代・天明の浅間山大噴火で埋没して失われ、幕末に峠の社人が現在地に再建したと伝えられているものです。弁慶の作というのですが、さて真偽のほどは知りません。 では、もうひとつ。これはなんと読むのでしょう? 「四四八四四 七二八億十百 三九二二三 四九十四万万四 二三四万六一十」 答えは、またあした。 H16.2.18 そば焼酎を求め信濃へ(2) 佐久平は、長野県の東側、群馬県と境を接する東信地方の盆地です。浅間山の南麓の町、小諸から、御代田、望月、佐久、臼田まで、いくつかの市町にまたがって田園が広がっています。標高はだいたい700メートル前後。有名な避暑地の軽井沢もすぐ近くです。 以前は、鉄道で軽井沢に行くとき、ヨイショヨイショと登った碓氷峠(うすいとうげ)。信越本線・横川〜軽井沢間の11.2キロに、トンネル26、橋が18もあり、おそろしく急な勾配(1000分の66.7)は、「汽車さえ勇む」(西条八十作詞「軽井沢音頭」)と表現されたほどの鉄路でしたが、長野オリンピック開催(平成10年)をひかえた平成9年10月に長野新幹線が開通したのを機に、同年9月30日の最終運行をもって廃線となりました。 長野新幹線に、その名も「佐久平」という駅ができて、今では東京から1時間20分ほどで佐久平に着きます。定期券で東京に通勤する人もいるといいますから、近くなったものです。 我々は車で行きました。新幹線で行くより時間がかかり、新宿から約2時間くらい。道中、カメラマンのMさんが鉄道写真を撮るときに体験したエピソードなど話してくれて、話題は、かつての駅弁からドライブ弁と変わった横川名物「峠の釜めし」や、碓氷峠にまつわるよもやま話となりました。 H16.2.17 そば焼酎を求め信濃へ(1) ♪ 信濃の国は 十州に 境連ぬる 国にして 聳ゆる山は いや高く 流るる川は いや遠し… 海から遠く、どこを向いても山、山、山。四方を山に囲まれた長野県は、長野に生まれ育った人なら誰もが歌える県歌「信濃の国」に詠(よ)まれたとおり、そびえる山はいちだんと高く、流れる川もずっと遠くまで続きます。国内で、海岸線から一番遠い内陸地点は長野県内(臼田町)にあるそうです。 長野の冬は雪。その景色は、6年前(1998年)に開催された長野オリンピックの報道によって、国内はもとより、世界中に知れわたるところとなりました。 山国ですが、長野県は昔から米の生産性が高く、清らかな水にも恵まれて、数々の銘酒を産する酒どころとしても有名です。県内どこを旅しても地酒があり、登山、スキー、温泉、観光とともに、宿の食事どきの楽しみとなっています。 米がたくさんとれるのは、「信濃の国」の歌詞にもあるように、「松本、伊那、佐久、善光寺」と、県内各所に稲作に向く盆地が存在するからです。いずれも高地の盆地です。平(たいら)と呼びます。 松本平(まつもとだいら)は中信地方の中心、伊那平(いなだいら)は諏訪平(すわだいら)とともに南信地方の中心、佐久平(さくだいら)は上田平(うえだだいら)とともに東信地方の中心、そして善光寺平(ぜんこうじだいら)は北信地方の中心。それぞれ肥沃な土地柄で、各地に豊かな文化が息づいています。 「松本、伊那、佐久、善光寺」と歌われた代表的な米どころのひとつ、佐久平に向かったのは、2003年、すがすがしい秋晴れの日でした。 H16.2.10 昨日お話しした韓国のボンデギはハチの子ではなくて蚕(かいこ)のさなぎでした。 訂正します。ハチの子の味を思い出したとき、ふと「絹の雫」も頭に浮かんできたも ので、つい間違えてしまいました。 「絹の雫」は、長野の人からいただいて食べた蚕のさなぎですが、どのような調理を したものか、見た目はともかく、風味も食感もちょっとナッツに似た、なかなかイケ ル味でした。スナックとしても、ビールや本格焼酎のつまみとしても合うかもしれま せん。炒めて軽く味付けしたのではないかと想像していますが、どうでしょうか(ま た食べる機会があれば、聞いてみたいと思います)。 ハチにしろ蚕にしろ、虫を食べる風習がみられる長野県。今は昔ほどには虫を食べる こともなくなったようですが、田畑を荒らす害虫として嫌われるイナゴも、長野の 人々の手にかかればみごとにおいしい佃煮(あるいはフライパン焼き)になると聞き ます。 宮崎県・高千穂地方に見られ、さらに長野県ではもっと広範囲に見られる「昆虫食」 という文化は、雪の積もる山国だからというだけではない、なにか歴史的な理由に基 づくところがあるのでしょうか。狭いようで広い日本。まだほかにも同様の食文化を もつ地域があるかもしれませんね。 そば焼酎を求めて、次は長野県・佐久地方を訪ねたときの話です。 H16.2.9 ハチは、「山のミルク」です。ハチの子とニラの炒めものを食べながら、そう思いました。 以前、長野では「ヘボめし」というのを食べたことがあり、また、ハチの子の佃煮も食べたことがあります。ある漢方医の診療所でハチの缶詰を見たこともありますが、あれは中国か韓国製でした。韓国ではボンデギというんでしたっけ(違うかもしれません)。中国(や韓国)医学ではハチも薬なんですね。 宮崎県・高千穂地方のハチの子は、白い姿のままで、長野の食べ方とはまた違う方法で調理します。野菜といっしょに炒めるのが一般的なんだそうで、特にナスと炒めると「とてもおいしい」と聞きましたが、その日、日之影温泉駅で食べたのは、ニラ炒めでした。一皿に山盛りいっぱい。全部たいらげて、なんだか体が温まってきたような。 山峡を走る高千穂鉄道の日之影温泉駅はおもしろい駅で、駅舎に温泉とレストランや土産物売り場があり、ちょっとしたヘルスセンターです。地元のお年寄りが三々五々、風呂場に向かう姿を見て、時間さえ許せばいっしょにひとふろ浴びたいところでした。こんど来ることがあればぜひ温泉につかりたい。 太陽の光がさんさんと降りそそぐ静かな山あいの日之影町は、天の岩戸に隠れた天照大神が岩戸から姿をあらわして世界を照らしたときにその光が差し込んだところともいわれていると、地元の方のお話です。だから、「日之影」なんですね。この場合、「影」は、明・暗の「明」、つまり「光」を意味しているわけです。 どこまでも神話に彩られた高千穂地方。ここで生まれる酒には山あいの清らかな水が使われています。その味わいには山のかそけき精気が・・・。ま、皆さん、いちどお試しください。 「そば焼酎を愉しむ」こぼれ話・宮崎編 終わり(大山芳) H16.2.6 高千穂町で一泊しました。夜は、食後、神社に出かけて神楽見学。おおぜいの観光客と一緒に、目をまるくしたり、笑ったり。いや、もう、感動しました。観光客向けのダイジェスト版でもこんなに興奮するのだから、本物を見たらどれほど感激することか。神社の前まで迎えに来てくれた宿のご主人と、感想やら、よもやま話やら、うちとけて話しながら、真っ暗な道を戻ったのです。 夜半、町の中心部を少し離れただけで、あたりはすっかり漆黒の闇の中。道行く車も人もなく、静まりかえった通りは、ぞくぞくと這い上ってくるような冷気に満ち、向こうに民家の明かりがぼうっと見えてくるまでは、走りだしたくなる気分にとらわれます。いくら町歩きが好きでも、闇夜の独り歩きは心細い。早々に宿に戻ってふとんにもぐりこみました。 翌朝、宿のごはんがすごくおいしい。食材も盛り付けも野趣に富み、季節感いっぱい。前日、蕎麦の話を交わしたこともあってか、女将さんが、おまけの1品をサービスしてくれました。「そばのポン菓子」を温かいミルクに浮かべたものです。香ばしくて、おなかにやさしい、おいしい1品です。いってみればオートミールならぬ「そばミール」といったところ。 米のポン菓子は昔からおなじみのものでしたが、そばのポン菓子があったとは知りませんでした。ほかに、とうもろこしもあるんですって(あ、そうか、ポップコーンだ)。関西には栗のポン菓子もあるとか(笑い栗とかいう)。いろいろあったんですねえ。「ポップソバ」(!)も、そのまま食べてもおいしいですよ。東京では見かけないけれど。 事前には日之影町に泊まるつもりだったのですが、日之影町の宿はどこも「満室」で断られたのでした。観光シーズンでもないし、平日なのになぜ? と、東京にいては事情がわからなかったのですが。 その日、日之影町を訪ねると、見上げる空に架かる橋「青雲橋」に青いシートがかけられていました。塗装(塗り替え)工事らしい。その工事のためにやってきた職人さんたちが町内の宿に分宿しているらしいと、地元の方が教えてくれました。 というわけで、『焼酎楽園』12号6ページの「青雲橋」の写真は、日之影町からお借りしたものです。その隣りの威容の山「矢筈岳」(やはずだけ)も、やはり日之影町からお借りしたものです。「矢筈」とは、なるほどと思わせる山容ですね。 「そば焼酎」を求めて宮崎県・高千穂地方(五ヶ瀬町、高千穂町、日之影町)を訪ねた旅も、あと1日で終わりです。 H16.2.3 宮崎の人々がなにげなく口にした「神武東征」うんぬんの冗談。そこに登場した神話に驚いたのではありません。ちょっとおおげさな言い方になりますが、そのような冗談が語られる宮崎の「精神風土」に、大和との共通点を見たような気がして驚いたのです。 神話では神武天皇即位の地とされる大和。つまり、「ひむか」(日向)からやってきた神武さんに征服された土地ですね。その大和でも、人々は神武天皇とは言わず「神武さん」とまるで友だちみたいな馴れた呼び方をします。 大和盆地の、とある私鉄駅の駅前広場には「神武さん」が立っていました。銅像です。駅前で待ち合わせする場合に「神武さんの(像が立っている)方で」などと言ったりしたものです。 戦後生まれの「戦争を知らない子どもたち」のあいだで「神武さん」が話題にのぼることはまずありませんでした。けれども、このように日常風景のなかに存在する「神武さん」(駅前の銅像や、橿原神宮など)は、知らず知らずのうちに、神話を身近なものにしていたようです。「八咫烏」(やたがらす)も「金鵄」(きんし)も大和ではおなじみのキャラクターです。 代々、大和に暮らす人々にとって、神話は、頭で理解するたぐいのものではなくて、日ごろ見慣れた風景のようにそこにあると感じている、ある種「皮膚感覚」みたいなものではないかと思います。いたるところに神話がちりばめられている宮崎県各地をめぐりながら、それと同様の感想が湧き起こりました。宮崎の人々にとっても神話は「皮膚感覚」のようなものではないか、と。 宮崎県を旅すると、この土地を「ひむか」と呼びたくなる気持ちがだんだん強くなるのです。こういう土地で生まれ、この土地の人々が育ててきた本格焼酎をもっとよく知りたい。取材は、「存在理由」を問う旅でもあります。 H16.2.2 簡単に「神話ロード」と書きましたが、正しくは「ひむか神話街道」といいます。 「ひむか神話街道」は、全県下が神話の地といって過言ではない宮崎県の、北の高千穂と、南の高千穂を結ぶ観光ルートです。といっても、一筋の道ではなく、国道・県道・その他の道をつないでつないで、地図上にS字形を描く路線なのです。一部、寂しい山道を通ったりもします。 宮崎市から北の高千穂をめざす場合の「ひむか神話街道」は、しばらく海岸線を北へ向かったあと、佐土原町の市街地から内陸部へ方向転換し、古墳の町・西都へ向かいます。その先はどんどん山の中へ入り、椎葉村から国見トンネルを抜けて五ヶ瀬町へ、そして、終点・高千穂町へと至るのですが、我々は、この路線を通りませんでした。 佐土原町を抜けてなお延岡方面へと続く海岸線を伝い、左手に尾鈴山を望み、北上しました。それは美々津を通るための、Tさんの配慮でした。 美々津は、観光ルートの「ひむか神話街道」からずっと離れているのですが、神話においては神武天皇の船出の地とされる湊です。神武東征(または神武東遷)の出発地なのです。 今は、神武東征(または神武東遷)といってもピンとこない人も少なくないかもしれません。この六〇年近い歳月、「戦後民主教育」は神話を遠ざけてきましたから。 私(高度経済成長期の子ども)も、学校で神話について教わった記憶がなく、さまざまな本を読んでほんの少し知っているにすぎません。たまたま、「神武さん」(神武天皇)に「征服」された土地(大和)に多少の縁ある身なので、宮崎の方にとって身近な「神武さん」の話も一応受け止めることができますが・・・。 かつて「神武東征のときに優秀な人材はみんな神武さんに従って東へ行ってしまった」というジョークが語られていたと聞いたことがあり、Tさんに確かめると、年輩の方のなかには「だから宮崎に残されたのは・・・」と、冗談とはいえ自虐的な言い方をされる方もあるということだったので、ちょっとびっくりしたのです。 ともあれ、宮崎県では、神話が、47都道府県のなかでも最も色濃く人々の心象風景に彩りを与えているのではないかと思う次第です。神話の里・高千穂地方をめぐって、ますますその感を強めました。 唐突ですが、神話に材をとった本はいっぱいありますが、1996年に刊行された『天皇はどこから来たか』(長部日出雄著)に、『ふたつの「高千穂」』についての考察が展開されています。難解ではなく、平明な語り口で、教えられることの多い内容です。 H16.1.30 取材前の移動のひととき。これがけっこう楽しいんです。ことに、地元の人とのおしゃべりには、驚きや発見、感動もあって、楽しいことこのうえない。 Tさんは、清酒も焼酎もイケルくち。味にも相当うるさい。グルメでもあります。 いっぽうHさんは、酒を飲めない体質なのに「酒飲みを見ているのが好き」なんだって。飲ん方(飲み会)でもっぱらウーロン茶を飲みながら人間観察をしているヘンな人。 このふたり組に同行してもらって、宮崎の旅が始まったのですが、両人とも地元・宮崎の人だから、宮崎弁での会話となって、ときどき何をおっしゃっているのかわからない。 わからないけれど、聞いてると、なんだか楽しい。きっと、その独特な抑揚のせいですね。 Tさんの博学ぶり(ことに動植物や食べ物、それに海や山の自然に関する造詣)にはいつも敬服するのですが、Hさんの人間観察力もたいしたもので、内心、舌を巻きながら、次々と展開する話題に耳を傾けておりました。 話題はさまざま。全然、脈絡なく、話が飛んだりしますが、東京からの来訪者に「宮崎」を伝えようとする気配りを感じました。言葉のはしばしに愛郷心が顔をのぞかせるところが、ほほえましい。 今回の目的地、高千穂(五ヶ瀬町、高千穂町、日之影町)まで宮崎市内から車でおよそ2時間半の行程。その間に、Tさん、Hさんから聞いてちょっとびっくりした話題をひとつ、次回、お話しします(といっても、焼酎には関係ない話ですから期待しないでください)。 H16.1.29 宮崎の女性が言いました。宮崎県には「高千穂」が2カ所あるんですよ。 ええ、知っています。宮崎県の北の高千穂峡のあるところと、南の高千穂峰のある霧島と。どちらも、「天孫降臨」の神話で有名ですね。 宮崎の女性がまた言いました。宮崎県は神話がいっぱい。どこにでも神話がありますよ。 そうですね。若者たちのなかには知らない人もいるようですが、40代以上は、知ってるんじゃないでしょうか。 宮崎の女性が言いました。宮崎の「神話ロード」を訪ねてみませんか。県内各地の神話ゆかりの地を結ぶ観光ルートがあるんです。 ええ、訪ねましょう。そば焼酎のふるさとは、宮崎県の神話の里。高千穂峡のある北の高千穂です。 こうして、宮崎市から北へ、神話の里をめざし、そば焼酎を訪ねる旅は始まりました。 H15.12.24 11月中旬に取材で球磨・人吉に行ってきました。東京より暖かく、日中は少し動くと暑いくらいでした。一昨年12月に行ったときは、朝霧が球磨川の上に立ち込め、近くを歩く人の姿も見えないほどで、幻想的な雰囲気でした。 今年は「寒暖の差があまりないので、朝霧はあまり出ませんよ」と、寿福絹子さん。今回は無理かなとあきらめていました。 ところが、二日目の朝、旅館のテラスから見ると、球磨川一面に朝霧がかかっていました。12月のときほど長い時間ではなかったのですが、朝霧のなかを球磨川下りの船が進んでいく姿は、やっぱり幻想的でした。 東京や大阪に比べて、球磨・人吉の冬は寒い。でも、寒いからこそ朝霧も見られます。さらに、イノシシ猟が解禁されるのは冬です。あつあつのしし鍋を食べながら飲む球磨焼酎の味は格別です。イノシシは臭いと思っている人もいるかもしれません。しかし、きちんと料理すれば臭みはありません。体がポカポカするほど温かくなることはまちがいありません。 人吉は温泉でも有名です。温泉の温度はちょっとぬるめに感じます(地元の人が熱いですから気をつけてくださいと言う温泉にも入りましたが、そんなに熱くは感じませんでした)。じっくり浸かるのに向いていそうです。 ぜひ一度、朝霧と温泉、そしてしし鍋を楽しみに、冬の球磨・人吉を訪ねてみてはいかがでしょうか。(小) H15.10.24 「秋は、本格焼酎の仕込みが始まる季節。いも焼酎も、米焼酎も、麦焼酎も。そして黒糖焼酎も。1年で最も冷涼な季節に酒を造るというのは、日本の酒造りの鉄則であり、奄美でも、それは変わらない」と、先週、話しました。 少しだけ、つけ加えます。 「日本の酒造り」は、「麹」(こうじ)を使った酒造りという意味です。ですから、清酒(日本酒)と、本格焼酎のことをさします。 「冷涼な季節に酒を造る」というのは、自然の環境のなかで、微生物と人との共同作業によって醸造する場合にあてはまる鉄則です。 今では、温度・湿度を調節する機械や、空調設備などを使って、人工的に「冷涼な季節」と同様の(あるいはそれ以上に好ましい)環境をつくりだすことができ、1年じゅう酒を造るメーカーもありますので、鉄則といっても、そのような設備をもたない中小・零細メーカーにとっての鉄則というべきでした。でも、実際のところ、日本の地酒を造っている酒造元はほとんどが中小・零細メーカーですから、まあ、一般的な話として、冷涼な季節に造ることが鉄則といってもさしつかえないと思います(泡盛も麹を使う酒ですが、特殊な造り方によって四季醸造ができる例外です)。 念のため申し添えるなら、冷涼な季節といっても、水が凍ってしまうほど寒冷では酒造りができませんので、そのような寒冷地では、秋ぐちに仕込みをすませ、次は、春から再び仕込みに入ります。酒造りにはたくさんの水が必要です。水が凍ってしまってはお手上げですよね。 いも焼酎は、原料のさつまいもが霜にあたると品質が落ちるので、霜降る土地では11月に仕込みをやめる酒造元が多く、いっぽう、奄美の酒造元にとっては、気温が低くなる(といっても降霜はない)11月は、いよいよ黒糖焼酎造りには最適の季節の始まりで、忙しくなるのです。(芳) H15.10.15 沖縄と奄美。似ているようで、けっして同じではありません。 酒造りの実態もかなり違います。いろいろ違いがありますが、そのひとつは、製造時期です。 沖縄では、四季を通じて泡盛を造っています。泡盛独特の造り方が四季製造を可能にしているからです(小誌の読者なら、その秘密はとっくにご存じ)。 けれども、奄美では、近代設備のととのった一部の大型工場を除き、秋から翌年の春まで、製造期間を限定しているところがほとんどです。奄美では、泡盛と違って、二次仕込み法を採用しています。それもあって、真夏は製造しません。 南国とはいえ、やはり10〜11月になると肌寒い日が訪れ、3月ごろまで冷涼な季節となります。1年で最も冷涼な季節に酒を造るというのは、日本の酒造りの鉄則であり、奄美でも、それは変わりません。 黒糖焼酎「あまみ長雲」で知られる山田酒造(奄美大島)の杜氏・山田隆さんは、昨年の春、こう語っていました。 「以前は10月、肌寒くなったら仕込みに入りました。でも地球温暖化というか、近ごろ秋になっても暖かいので、今シーズンの仕込みは真冬、1月から初めて、最後の蒸留を4月に終えます。今後も、たぶん、製造は年明けから始めて春までのおよそ3カ月間となるでしょう」 小さな蔵です。わずかな量しか造っていません。最後の蒸留まで入れておよそ3カ月ということは、仕込み期間は正味2カ月間くらい。 ところが、その後、事情が変わり、山田さんの予定は修正されることになりました。 5年間も貯蔵した長期貯蔵酒の需要が伸び、これを安定的に供給するためには、その原酒をもっと造っておかなくてはなりません。5年後の出荷のために今造るのです。 昨年の秋に出した新商品も好調です。 1年以上ねかせて出荷する一般酒のほかに、古酒用、そして新商品。違ったタイプの原酒を造らなければならないので、山田さんは、忙しくなりました。なにしろ、造りにたずさわるのは、山田さん親子ふたりだけ。年明けの3カ月間ではこなせない。やむなく、今年は10月中旬(今週)から仕込みに入りました。暖かいうちは、醪(もろみ)の温度管理が大変と言っていた山田さん。きっと、今ごろ、タオルかバンダナ巻いて、汗だくの日々ですね。 秋は、本格焼酎の仕込みが始まる季節。いも焼酎も、米焼酎も、麦焼酎も。そして黒糖焼酎も。来週(23日)発売の11号では、再び黒糖焼酎の全蔵をご紹介します。(芳) H15.8.22 きょう、8月22日は、東京に路面電車が走ってちょうど100周年にあたるそうです。100年前といえば明治36(1903)年、日露戦争の始まる1年前のこと。古い話ですね。それから11年後の大正3(1914)年、この年は、世界史でいえば第1次世界大戦が始まった年ですが、沖縄に鉄道が敷かれました。路面電車と、狭軌の軽便鉄道です。 泡盛の取材に行って、鉄道の話が出ることはたびたびあります。 首里の老舗蔵の会長さん(明治42年生まれ)が路面電車の思い出を話してくれました。「旧制第一中学校(現・首里高校)の生徒だったころ、那覇の本屋に行ったり、野球部の試合の応援に奥武山まで行ったりしました。首里の一中前から乗って、順に坂下、安里、崇元寺前、泊高橋、前島、若狭、西武門と停車し、終点は通堂。まだバスは通っていなかったので、首里から那覇に行く交通機関は、この路面電車(沖縄電気軌道)しかなかった。単線で、すれ違うときは、引き込み線で通過するのを待ってから出発したものです。いい思い出です」 また、40代のある蔵元も、鉄道の思い出を話していました。 「戦後ずっと鉄道のない沖縄に生まれ育ち、小さいころは、鉄道への憧れをもっていました。小学校低学年のころだったと思いますが、海を渡って鉄道車両が沖縄に運ばれ、展示されることになり、それが見たくて見たくて、父にせがんで見に行ったことを昨日のように覚えています」 つい先日、8月10日にモノレールの運行が始まった沖縄では、大勢の市民が乗り込んだといいます。沖縄では待望久しい鉄道の復活。こんど取材に行くときは必ず乗ってみたい。(芳) H15.8.14 沖縄取材では、国際通りに面したホテルに宿泊。取材先の飲食店で夕食を済ませ、ホテルに戻ると、泡盛をいつもより飲みすぎたせいか、すぐにベッドに潜り込みました。しばらくすると、騒がしい音が通りから聞こえてきました。 翌朝、昨夜の騒音のことを地元の人に尋ねると、 「たぶん、暴走族だと思うよ」 (沖縄にも暴走族がいるんだ。ま、驚くことでもないか) 国際通りにある店を何軒か覗くと、NHKの朝の連続ドラマ「ちゅらさん」で登場した「ゴーヤーマン」の人形が売られていました。ドラマの影響力はすごい。金武町の石畳にある「ちゅらさん」の撮影で使用したという家の前では、記念撮影をする観光客が後を絶たない。私のパソコンの上ある沖縄土産の「ゴーヤーマン」。今となっては誰にも見向きもされませんが、たまに見ると、楽しかった沖縄取材が思い出されます。 そういえば、ついさっき、会社がある神楽坂の通りを歩いていた青年が「ゴーヤーマン」のキーホルダーをギターケースに付けていました。もしかして、あの時の暴走族のバイクにも? (福) H15.7.22 今号の特集は「泡盛」。新酒のビン撮影にちょっと苦労しました。地元カメラマンの島袋浩さんは「廃船を背景にして撮影したらどうでしょう。面白い写真が撮れそうだけどね」と、提案。おなじ海辺を一緒に歩いていても、目をつける場所が違うことに驚きました。ああでもない、こうでもないと検討しあい、結局、「廃船」はボツになったのですが、島袋カメラマンの着眼には感心したものです。 撮影当日は曇り空。ときおり、雲間から太陽が顔を出した一瞬を見計らっての撮影となりました。 島袋カメラマンが撮影場所に選んだ海は引き潮。私のなかで思い描いていた「青い海、白い砂浜」のイメージとぜんぜん違いました。「少し奥まで歩きましょう」と、明るい声の島袋さん。 でも、ちょっと待って。彼は水陸兼用のスニーカー(水に濡れても大丈夫。濡れても、すぐに乾く素材を使用しているとか)を履いているから、さっさと向こうへ行ってしまうが、編集長も私も革靴なんだよ。しかたなく裸足になったものの、珊瑚礁の上を裸足で歩くと、まるで針の上を歩くみたいにとても痛い。あまりの痛さに堪えきれず、革靴をまた履きました。すると、三歩と歩かないうちに革靴がびっしょりに。 どれほど歩いたでしょうか。「ここで撮影しましょう」と声を掛けられたときには歩き疲れて疲労もピーク。返事をするのもやっとでした。翌日、取材のときにふと気がつくと、編集長の靴が塩を吹いていた。で、足下を見れば私の靴も…。トホホ。 写真撮影の裏舞台は、いつでもハプニングの連続です。泡盛特集では、そのときに撮影した写真も大きく拡大して使いました。ぜひ、ご覧ください。(福) H15.7.18 Vol.10の泡盛特集では、古酒とともに新酒を採り上げようということに。レトロなラベルの2合ビンは、なかなか本土では見かけないが、泡盛の象徴ともいえる存在。そこで、泡盛48全蔵の2合ビンを集めようと那覇市内、石垣市のスーパー、DS、酒屋を手分けして回った。しかし、7蔵の2合ビンだけはどうしても手に入らなかった。やむをえず、3合ビンでがまんすることになった。残念! よろず屋のような酒屋が多く専門店がほとんどない沖縄では、酒はスーパーやDSで買う。2年前に比べて、スーパーの品揃えが豊富になったのには驚いた。かつては店の片隅に少しあった泡盛が堂々と棚一列を占めている。それだけ、地元でも飲まれるようになった証拠である。 観光客が買うのは、国際通りの店や空港の売店が多い。どちらも品揃えは豊富だが、価格は希望小売価格。銘柄にそんなにこだわらないのなら、スーパーやDSがおすすめである。発送もしてくれる。あるDSで「春雨12年古酒」を発見。さっそく個人的に購入した。価格も大満足! また、那覇や糸満にある蔵は見学できるところも多い。沖縄へ行ったら、ぜひ立ち寄ってみよう。(小) H15.5.2 松永玲子さん(松永酒造場)永眠される 松永酒造場(徳之島)の松永玲子さん(代表取締役)が、3月20日永眠された。心から哀悼の意を表します。松永酒造場は、徳之島の奄美酒類(株)構成蔵のひとつ。『焼酎楽園』季刊化第1号(Vol.9)から始めた新連載「親から子へ」に登場いただいたばかりであった。取材させていただいたのは、昨年11月末。芯のしっかりした明るい方で、たいへんお元気だったので、訃報をお聞きしたしたときは信じられなかった。蔵は娘の松永晶子さんが引き継がれる。
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